湯は、街に知り合いをつくる。
柳湯
入社して一ヶ月たった頃。
初めての京都出張の前日が日曜日だったこともあり、
ひとりで前乗りして、家元の行きつけだという銭湯「柳湯」へ足を運んだ。
実はそれまで、自分の住んでいる街でさえ
普段から銭湯に行くことはなかったので、
知らない街の銭湯に、少し緊張した面持ちで暖簾をくぐった。
昭和の雰囲気が漂う、レトロな佇まい。
昔ながらの男湯と女湯の中央にある番台でお金を払い、なかへ入る。
銭湯を兄弟で切り盛りするおじさん、中谷さん兄弟は、
女湯側に気をつかって番台には座らず、
男湯側の脱衣所で、常連客とおしゃべりをしていた。
地元の常連らしきおばあちゃんたちに混ざって、
そこでのルールを見様見真似で模倣しつつ、
人生ではじめて、京都の湯に浸かった。
夜の時間帯だったが、浴場もお湯も清潔で、
お風呂ってこんなに気持ちがよいものだったんだ・・・と思いながら、
緊張していた身体と心がほぐれていった。
山奥の秘湯や旅行にわざわざ行かなくても、
身近にある銭湯でこんな気持ちを味わえることが、素晴らしいことのように思えた。
帰り際、御礼とともに、
「お風呂気持ちよかったです。実は家元のお勧めで、はじめて来ました。」
と伝えると、中谷さんは嬉しそうに笑って、
「ほな、ジュースでも飲んでいきなさい。」
と言うやいなや、
銭湯の外にある自動販売機でジュースを買ってくれた。
ご厚意に甘えていただいたジュースをもって、
少し立ち話でも、と思ったが、なんと男性側の脱衣所に招き入れられた。
裸の男性たちに背を向けながら、中谷さんとの楽しいおしゃべりが始まった。
次々にお菓子やゼリーなどを出してくれて、いろんな話をした。
さっき初めて言葉を交わしたということを忘れてしまうほどに、
2時間ちかく、あっという間に過ぎていた。
ついさっきまで見ず知らずの他人だったおじさんが、
まるで昔から知っていたかのような近所のおじさんになった。
それまでは観光地としてしか知らなかった京都という街で、
初めて”知り合い”ができた。
そして、京都という街が前より好きになった。
行く度に、中谷さん兄弟に会いにいきたくなった。
これが、わたしが銭湯と京都を好きになったきっかけ。
*
2020年冬、お兄さんが急逝された。
お兄さんは裏で湯をつくる担当だったが、残された弟さんは、
自分には兄のような良い湯はつくれない…とおっしゃり、
柳湯は廃業してしまった。
今でも、京都に行く度に、柳湯の前を通り、
暖簾の出ていない玄関の前で、佇んでしまう。
もう、前のように中谷さんたちと
風呂あがりにおしゃべりできないことが、寂しい。
これまで、柳湯の湯とおふたりの人柄によって、
たくさんの人の身体と心を温めてきた兄弟の
幸せを願わずにはいられない。